近代と仏教

 東京は愛宕山にある真言宗智山派の伝法院での「近代と仏教」中沢新一多摩美大学教授、芸術人類学研究所所長の講演があった。
 
 近代とは170年ほどまえヨーロッパの産業革命とともにはじまる。それ以前は、職人が社会を構成していた。親から子へ、師から弟子にうけついだ手作りの作業をおこない、土地と身分に縛られた不合理な人生を生きていた。一番不合理なものは生と死だが。
 
 産業革命以降は、人間が土地と身分からきりはなされ、個人に分解されて資本に隷属するとともに、魔術は排除され、合理的な個人信仰がはじまった。
 
 日本の近代化は、黒船の襲来にはじまる。仏教の近代化も江戸末期の廃仏毀釈にはじまり明治にすすめられた。明治の仏教学者は「大乗非仏説」を提唱する。ぼうだいな大乗仏教は、歴史上の釈尊が説いたおしえではない、という。
 
 しかし、小乗では個人の悟りは有っても、大衆すべてがしあわせになることはできない。
 
 そこで大乗をもとめる仏教者は、スリランカからインド大陸にわたり、北上し、観世音菩薩のうまれかわりの法王が統治するチベットにいきつく。河口慧海である。最澄、空海、道元らが中国にわたったように、法をもとめての旅だった。
 
 近代の仏教は、宮沢賢治らの国柱会の法華経による国家統治、出口王仁三郎、南方熊楠ら真言宗のマンダラ思想にもとずく理想国家の建設を夢見る一群のひとびとを生んだのだった。しかし、これらの良質な仏教者は、国家神道にもとづく国家権力の弾圧と、仏教教団の官僚主義の中で敗北しわすれられていった。
 
 初期の社会主義は、もっとも抑圧され差別された労働者こそが根底的な革命をなしとげることができるとして、民族、国境、宗教、性をこえて、国際資本にたいするインターナショナルな個人の団結をうったえ解放の理想をかかげた。

 しかし社会主義国家の官僚主義と個人の欲望、宗教、民族の紛争によって壮大な実験は破綻した。政治的な自由をうばい強欲な個人競争をかかげる市場経済をとりいれた抑圧的な共産主義国家がたちあらわれている。実体経済に基づかない強欲資本主義もリーマンショックによって打撃をうけた。

 近代的個人の解放の道はどこにあるのだろうか?いまこそ万国の労働者諸君、瞑想せよ。個人の内面にこそ、仏が顕現する悟りの智慧のたねがあるのだ。

 音楽は、セロニアスモンク、コールマンホーキンス、ジジグライス、レイコープランド、ジョンコルトレーン、ウイルバーウエア、アートブレイキーの「ルビーマイディア」「オフマイナー」「ウエルユーニードント」「クレプスキュルウイズネリー」です、

 オープニングとエンディングは、ユア・ソング・イズ・グッドとバードの「クラブトロピカーナ」。カンノヨウコ「AI戦隊タチコマンズ」。

 人に行動をおこさせるものが真実だ。道に落ちているお金でなく、這っている昆虫が真実なのだ(養老孟司曖昧引用)。デフレスパイラルの今、日々の生活をたしかめてみませんか。音楽ファッション政治経済趣味雑学の一雨ごとの初春到来。おとなのクールでホットで上質な?会話がたのしいエフエムビザン79.1メガ、土曜日午後8-9時の「3Bの鉛筆」です。
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